昨日は母と、私が生まれた街、「立石」に行ってきました。
TXの守谷駅から金町までは1時間弱。
守谷-南流山-新松戸-金町、、、と、乗り換えが結構面倒くさい。。。

母との待ち合わせは金町。
常磐線の金町駅に立つと、わっ!と思いました。
駅前の東急デパート。
幼いころ家族で通った「銀座アスター」がまだあった!
なんて懐かしい。。。
今も忘れません。
こちら側、右側の壁沿いは当時大きなガラス張りになっていて、中の店の様子が見えました。
私はトローリ海鮮野菜餡のかかったラーメンが大好きで、来るたびにそればかり注文、父はここの堅焼きそばが好物で、たっぷりの餡のかかったパリッパリの焼きそばをよく注文して食べていました。
「銀座アスター」今も残っているなんて、、、。
ビックリです。
常磐線から京成線に行くのにちょっと迷う。
小さいころは常磐線下のトンネル通路、もっと暗くて長かった気がする。
明るくて短いトンネル通路を抜けたら 、目の前に広がる見慣れた景色。
『あ!この風景、夢で見た!!!』
と思った。
幼いころの景色って刷り込みがすごいんですね。
ここと気付かず、夢にでてくるなんてねぇ~。
うわ~、、、って思いました。
母とは無事、京成金町駅前で遭遇。
75に見えないな、若いな。
「これ乗れば立石行くわよ」
ってチャキチャキの下町生まれの母。
金町発のモスグリーンの電車に乗車しました。
でも高砂でドヒャ~って人が降りて、・・・あら???
元来たほうに電車が戻ってしまうでないの。。。
「あれ、お母さんなんか来た方向へ戻っている気がするけど???単線だからいったんバックしてどこかで前から来た電車避けるのかな?」
って、のんきな娘、間抜けな質問。
念のためあらかじめ調べたヤフー検索結果を見たわたし。
あれ?・・・金町-高砂間はピストンみたい。
「早く言ってよ~。昔とちがうじゃないの~」って母は言うけど、
わたしも下町生まれの母を信じて油断していた。。。
頼る人がいると速攻思考を停止して、ただ黙ってついていくモードに入る自分の癖を再確認。
(だから、責任持たされないと私はダメなんです。人任せで成長しないの・・・)
ゴールデンウイークでものすごい人の中、高砂-柴又間を二往復。
立石に行くには高砂と青砥で乗り換えるのね。
30分も余計な時間を費やしてしまった。
いや~、面倒な京成電鉄!
やっとこさ立石駅に到着。
駅前でいきなりローカルすぎる店に出っくわす。
私が生まれた頃から同じようにやっていたんじゃない?って思われるお肉屋さん。
こんなたくさんのお肉!
売れるんだろうか。
うちのほうの店でもある光景なんだけど、ショウウインドウが古めかしいせいか、大量の肉と店が不釣り合い。
肉がやたら迫力にあふれて見えた。
昔はこっちの「仲見世」が栄えていたそうで、母がこっち行きましょ♪って。
三歳くらいの私はよく手をひかれてここに来ていました。
母が買い物をしているあいだ、隣の店の人に話しかけられて怖かった記憶がある。。。
子どもの私の相手をしてくれたんだろうに、人みしりの私はそれが嫌でした。
今では考えられない!
閉まっている店、あいていても暗い感じの店が多く、閑散としていました。
でも店構えが当時の感じなので懐かしい。
アーケードを抜けると大きな通り。
母に
「ここ、東京オリンピックのマラソンコースだよね?」
って聞いたらわからないって。
そうそう、父に手をひかれてここ歩いてきたんだ。
で、あの大きな通りで肩車されて、マラソンランナーに割りばしにつけた日の丸の旗を振ったの。
ここは毎日、晩飯のおかずを買いに来た「魚次」さん。
ここは閉まっていましたが数メートル先に「魚次」という居酒屋さん風の店がありました。
昔はこの魚屋さん、大きくて活気があったって。
母がここ右よ、って。
そうそう、思いのほか当時の記憶がよみがえる。
そんなに小さく感じない。
当時暮らしていたアパートはマンションになっていました。
母が10年前に寄った時には、まだ残っていたらしいけど。
6,70メートルほど先にあった、父の勤めていた工務店も今はなかったです。
秋田でリンゴ農家を継ぐのが嫌で、四ツ木で工場を経営していたおじさんを頼って東京に出てきた父。
父は「三立」っていう小さな工務店に勤めていたんだけど、私はそこの経営者のおじちゃんにすごく可愛がってもらっていました。
(日立系列の子会社になるのかな?日立製品のロゴの入った機械をものすごくたくさん扱っていたな)
小さくてチャキチャキしたおじさまで、今でも経営者のご家族の人情や優しさを思い出す。
あちらのご家族とうちの家族とみんなで海へ行った時、おじちゃんの息子さんに生まれて初めてビンのコーラを買ってもらって飲みました。
薬みたいでビックリしました。
海に入ろうといわれて父と息子さんたちにしっかり浮き輪を持ってもらって海に入ったんだけど、私は恐くてずっと大泣き。
ひたすら大泣きしてました。
今でも海に入るのは恐いです。
話はそれましたが、、、
それにしても自宅アパートと工務店がこんなに近距離だったなんて・・・ね。
当時アパートの隣は八百屋さんだったと思うんだけど、母は「花屋さんだった」というの。
ここで大根を上にかざして「だいこ、え~~~、だいこ」と売っているお兄さんがいて、私は大根を「だいこえ」と覚えて、母に正されたんだから。。。
正しいのは28歳の母の記憶か、3歳の私の記憶か・・・?
渋江公園にも行きたかったけど、母も私も歩き疲れてヘトヘトになったので、ご飯タイム。
立石駅前のお蕎麦屋さんに入りました。
ココは混んでいたけれど、古い店はどこも閑散としていて、すたれた感じ。
人がいないのか、と思いきや、パチンコ屋さんは結構な人出だったりしています。
人の割に店が多すぎるんですね。
っていうより、昔ながらの店は、家族同然のお得意さんが食べにくるくらいでどうにかやっていってるって風に見えました。
街中を歩いていたら、サザエさんそっくりの頭をしたおばさんがいて、
『ほんとにこんな髪型の人が下町にはいるんだ~。マジ~?』・・・と。
写真を撮りたかったけど遠慮した。。。
生まれた街にこれてよかった。
母がいなったらたどり着かなかったな。
付き合ってくれた母に感謝です。
でも都会の街中でも、ひそかに過疎化が進んでいる感じがしましたよ。
あそこで暮らせるか?と考えたら、う~ん、どうかな・・・、と思います。
守谷のほうが暮らしやすいですね。
もしかしたら東京駅に出るの、守谷からのほうが早いんじゃないかな?
蕎麦屋さんで高齢のおばちゃまたちが、
「私ここに来て50年」
「私は60年よ」
なんて会話していたけれど、きっとどこかから嫁に来たんだな。
それにしても蕎麦と天ぷらと丼もののセットを頼んでペロッと食べていたおばさまたちに生命力を感じちゃった。
すごいよ~
私より多く食べてるし、
しかも食べ終わると
「あんた、もっと何か頼みなさいよ」なんて言い合っている。
私の小さかった頃、私の周りにいた祖母や四ツ木のおばちゃんや三立のおばちゃんと同じ空気感を感じ、懐かしく思いました。
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